旅に出よう、滅びゆく世界の果てまで
帰郷はいつも複雑な感情を掻き立てる。言い表しようのない滅びの予感。
見知った風景、消えた風景、変わった風景。
誰も自分を覚えていない。自分を覚えている家族。
残された営み。退屈な時間。取り残されている何か。
故郷に滅びがまとわりついているのを感じている。原風景の消滅を予感している。
遠い先の終わりを想像させる。
ただただ空虚で、だから私は帰郷が苦手だ。
メアリと魔女の花について今思うこと
以前私は、メアリと魔女の花のことをさらっと書いた。
だけども今になってふと思う。王道的な児童文学(快活で冒険譚でジュブナイルな物語)で文学的なものを描くのは、きっと晦暗な物語でそれを実行するよりも難しいのでは、と。文学はたぶん日向よりも日陰を好む。
ましてやそんな目に映らぬものを映像化しようとするのだからその難しさは半端ではないのかもしれない。王道さはときとして凡庸になりえる、異端な物語が理解を得られないように。
メアリと魔女の花は、作り手として形式的に作りやすくもあり同時に形式の中に収束するという点で作り難くもあったのではないかと今では思う。彼らは難しいことをやっていたのではないかと、夜に思った。
私はいろいろな人と一緒にいるときは、いつも独りぼっちだった。
NOIRを観ていて「私はいろいろな人と一緒にいるときは、いつも独りぼっちだった。私じゃないわよ。アーネスト・ヘミングウェイ」というセリフを聞いた時、言語化はできないけれども体感的に教養が必要な理由を感じた。教養がなくても生きられるけれども、人間を語ろうとするとき、きっとどこかで私は教養と交差するのだろうと漠然と思った。
幼年期の終わり
夢のような時間も終わる。
私には熱がいる
ネットニュースの中で久々に熱量を感じる記事だった。
人の熱さが好き。自分の熱量が他人に伝播するような、熱さ。
私は熱を感じる感性をもって生まれた。
そして私は冷たさの中では生きてはいられない。
私には熱がいるのだ。
メアリの魔女と花を観て
メアリの魔女と花を観てきた。
「思い出のマーニー」のような誠実な表現を期待して観に行った。ドキドキするような物語を観れますようにと思いながら観に行った。
でもそこで目の当たりにしたのは、期待していたものとは異なった。
児童文学の文学足る部分を観たかった。
正直なところ半端な作品というのが印象だったし、はっきり言えば落胆した。
いったい何を描きたかったのだろう。ぱっとしない。
良いところといえば、メアリと赤毛の魔女が可愛かった(特にメアリの、下ろした髪型や後ろに束ねた髪型はキュートだった)。
恐らく本作は評価としても半端なものにとどまると予想する。だけど彼らスタジオポノックは漕ぎ出したばかりの船みたいなものだし(たとえ観る側からすれば関係なかったとしても)、この作品でせめて収益性だけは確保して次作で精緻な作品を生み出してくれればよいなと思った。